カモメの背を見ながら⑭

追想

昨晩、ひとりになった部屋で「星守る犬」という映画を観ていた。地デジに対応していない古いテレビ。平面ブラウン管のその画面を見つめていた。

ストーリーとしては主に、西田敏行演じるうだつの上がらないおじさんが、飼い犬と共に関東から北海道へ彷徨い、挙句の果てに野垂れ死にするという流れだった。
おじさんは職を失い家族を失い、金を失いプライドを失い、最後に残ったのは絆。命さえ失っても、飼い犬ハッピーとのそれだけは決して失われなかった。

おじさんと自分自身を重ね合わせていたし、車中泊しているおじさんが「ハッピー。死にたくないよう。」と吐露しながら愛犬のそばで息絶えていくのを見るのは物悲しかったが、ぼくにはそれほど悲劇的な話には思えなかった。

映画が終わりに近づくにつれ、「これでよかったんだ」と思えていた。

 

そこに風呂上がりのオオタニさんが戻ってきた。ブラウン管の中の西田敏行を見るなり、独り言のように吐き捨てた。

「あー、こういう奴どうしようもないよね。救いようがない。こうなるのも自己責任だよね。」

 

やっぱり、かわいそうな人なんだと思った。野垂れ死にしたおじさんのことではなく、オオタニさんのことをそう思った。
理由はうまく説明できないけれど、なんと言うか、自分の考えや好き嫌いや価値観がかっちり決まってしまっていることに、彼の生きづらさがあるのだろうと推し量ったのかもしれない。

 

「明日、タクシー飛ばして日本三景の松島いってくるよ。オジマさんも来ない?」

金を稼ぐのはいいこと、貧乏は悪いこと。生きるのはいいこと、死ぬのは悪いこと。美しいのはいいこと、醜いのは悪いこと。そういったドグマにどっぷり侵されながら生きることはさぞかし辛かろう、と同情したのかもしれない。

貧富も生死も美醜も、カモメの背と腹のように同じモノの一側面に過ぎない。本質的にはそれらは浮世の二元性の産物であり、カモメは背と腹が揃ってこそカモメなのだ。
自分の気にいらない片側を批判することは、自分の気に入ったもう片側をも批判することになるはずだ。

カモメの背を見おろしながら、そんな昨夜の出来事を想う。

 

昨日はあんな風に一方的な憐みをもったけれど、結局はオオタニさんもぼくも、同じ穴のムジナだった。

映画のおじさんを批判するオオタニさんをぼくも批判していたのだから。

そして、同じように金に対し苦しみを抱いている二人という意味合いでもそうだった。少し前までぼくは金が無いことに苦しんでいたし、オオタニさんは金があることに苦しんでいた。

あるにせよないにせよ、いずれにせよ金で苦しんでいるもの同士。宇宙はよくぞ、こう上手くこんな形で我々を巡り合わせたものだと感嘆した。

 

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