カモメの背を見ながら㉑

追想

夕刻。操舵室見学の余韻もそこそこに、客のディナータイムが始まった。相変わらず喉が痛む。右奥歯もしくしく痛む。そんなぼくの体調なぞにはお構いなしに汚れた食器は押し寄せ、皿洗いに没頭せざるを得ない。例の食器洗浄機のコンベアに食器を流す。オオタニさんはパニくりながらも、洗いあがった熱い食器をさばいていく。その頃のぼくは、なるべくオオタニさんのペースを推し量り、流れる食器の量に強弱をつけることを覚えていた。

ぼくは腰を折り巨大なシンクに屈み、手を伸ばし食器を拾い上げる。腰を伸ばし、それらをコンベアに乗せる。終わるとまた屈み腰を伸ばし、それらをコンベアに乗せる。規則的にその雪かきのような作業を重ねる。ほぼ規則正しくルーティンで動作を繰り返す。その方が楽なのだ。

 

がたん、がたん、がたん。食洗器の発する音と自分の動きがリンクする。それはチャップリンのモダンタイムスのフィルムのように機械が強力な主体性を帯び、ヒトが強制的に動かされている光景に似ていた。

食洗器とオオタニさんと自分がシンクロする。意識が弱くなる。思考も衰えていく。樹脂製のおもちゃのような食器を手に取る。機械へ流す。繰り返す。頭は働いてはいないが、身体だけがこの動作を覚えて行っている。

その動作を時間を忘れるほど繰り返すうち、意識が目の前にある現実から飛んだ。がたん、がたん、がたん。

 

*

 

その時ぼくは、よだれをくっていたのだろうか?おもちゃ。これは、おもちゃの食器。まるで、おままごとをしているみたいだ。お父さん、おかえりなさい。ご飯はできているかな?むしゃむしゃ、おいしいな。あなた、お風呂わいてるわよ。よっこらしょ。湯舟につかると息子があひるのおもちゃと玩具の船を浮かべる。お父さん、お船がしずむよ、ほら、どーん!きたかみが湯舟の中でゆらゆらと沈没しそうになっている。現像されて操舵室のパネルに焼き付けられた、無様に傾く、きたかみの姿。その中でオオタニさんとぼくが皿洗いをしている。ゴジラやウルトラマンの映像作品に出てきたみたいに、港や街並みが津波に呑まれる。ビルや高速道路が壊れていく。全部、そうなのだ。世界はジオラマなのだ。あらゆることが、つくりものなのだ。極めて出来の良いCGなのだ。

 

「ままごとじゃねーんだよ!」とか「ガキの使いじゃねーんだよ!」というのは、嘘だ。全部、戯れなのだから。むしろこの世の本質を顕わしているのは、大人社会の現実ではなく子供のおままごと遊びやガキの使いのほうなのだ。あっちのほうが「本物」なのだ。

ぼくらはくそ真面目に夢中になれるこのくそ面白い、人間ごっこをしにここに来ているに過ぎない。金さえも、実体がなく、まるでおままごとで使う、こども銀行券みたいなものなのだが、オオタニさんもぼくもそれが増えただとか減っただとか夢中になり、右往左往を楽しんでいる同じおめでたい存在なのだ。

 

この戯れに意味なんかなかった。ぼくが今まで苦しい風を装って散々興じていたのは、どうやって人生に意味を結び付けていくのかというゲームみたいなものだった。この世は学ぶ場所であり学ぶ場所でなく、学校であり学校でなく、我々は愛であり光であり愛でも光でもなかった。オーム、無だった。

 

意味がないからこそ、「これ」にどのような意味を与えても自由なのだ。人生には意味がないという意味、それさえ与えることをしても良いのだ。そしてその意味は千差万別で各個人で異なる。だから、例えばオオタニさんとぼくの様にあの西田敏行の映画に対する意見が食い違っても、それはお互いを責められるはずもなくお互いに全く自由なのだ。

遊びをせむとや生まれけむ 戯れせむとや生まれけむ 遊ぶ子供の声聞けば 我が身さへこそゆるがるれ

遊ぶことや戯れは社会や学校そのもので、人生そのものだった。

 

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