狂おうぜ

つれづれ

彼女や奥さんの前でおならをするかどうか。悩ましい問題である。

事前に宣言しておくと結論は出ていない。それは人それぞれカップルそれぞれ時代それぞれであり、そんなものに紋切型の答えを求めたり答えを出してもただただ害悪なだけれある。

かつて自分は「する派」であった、というと語弊がある。そこには「笑えるおなら」と「笑えないおなら」という区別があって、「笑えるおなら」は豪快にぶっ放すが、「笑えないおなら」はなんとか我慢するという美学がかつてあった。

その辺の判断はだいたい出る前にわかる。その辺の微妙なさじ加減を、もよおした瞬間に判断するのである。待てか、行けか。下腹部の張り具合と出口センサーで総合的判断を行っているわけである。たかがおなら、されどおならである。

 

笑えるおならと笑えないおならの違いは微妙である。やり続けるとわかるが、その違いはあくまで「生々しさ」にあると思う。現代日本人は、と言っていいのかどうかわからないが我々大人は生命感をリアルに感じさせるものに触れると恐怖する傾向にあるようだ。あたかも子供の頃あんなに大好きだったカエルや虫が大人になると苦手になったりするように。

だがその生々しさをちらつかせながらその一歩手前で止めておくと笑いになる。恐怖と笑いは似ていると言うが、ほんとうに繊細な境界線である。

 

かつて田代まさしは、奥さんの前で一切の放屁を封印しているということで有名であった。だから彼が一連の騒動を起こした時は、ほれ見ろやっぱり放屁を我慢するのは良くないのじゃないか!と溜飲を下げたのを覚えている。

では奥さんの前で放屁をしていれば彼は犯罪を犯さなかったか?それはわからない。その情報はあくまでも一面的なものだ。
ただ何の理由があってかは分からないが、察するに彼は「生(せい)の生々しさ」というものを極度に制限し封印する人生を送っていたのではないか。それは死への不健全な欲求を生み、彼はああいった行為で購うことにより自分の存在を「抹殺」しようとしたのではないか。

 

かつては祭りがそう抑圧した生と死のバランスを取るのに一翼を担っていた。だが祭りさえも経済システム化された現代ではまことにエロスやタナトスの収まる場所がない。

毎年繰り広げられる渋谷のハロウインのバカ騒ぎに至っては、特に目的地もなくあてどなく警官の指示に従いスクランブル交差点を幾度も幾度も幾度も往復している人が多数だ。

我々は何やら「生々しいもの」を無意識には求めているけれど、どこに行けば手に入るかわからない。そこかしこにあふれているのは「笑えるおなら」程度のシステムマチックなコントロールされた体験。

なんでもクリアにクリーンに、清く正しく美しく生々しさを失いつつ、ただただ騒がしいだけの交差点をお化けのように彷徨い死んでいくだけの人生なんて寂しいじゃないか。

この記事を書いた人
MAZIO

人生の意味を探し続けて30年。考え研究し実践し体験し出た答えは「人生には意味がない。ニンゲンは自由だ」。人を笑わすことが大好きかつ自分が笑うことも大好き。2009年からコーチングのセッションやってて歴10年目に突入。タロットも同じくらい。個人セッション受付中。得意ジャンルは人間関係、お金、目標達成など。

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