カモメの背を見ながら⑳

追想

操舵室はシンプルな構造だった。アニメで見た宇宙戦艦ヤマトや、写真で見る現代の航空機のコックピットのように計器やレーダーの類が、おびただしくびっしりと配置されているわけでもなかった。

船長はためしに少し、ぼくとオオタニさんとに船の操縦ハンドルを握らせてくれる。船の大きさに比して、そのハンドルは小さく、心もとないもののように思えた。ただ、その物理的大きさというものは重要ではない。その舵さばき次第で数百、数千の人命を左右する場面だってあるはずなのだ。そう思うと、ハンドルを持つ手に汗がにじんだ。さすがのオオタニさんも緊張しているようで、いつになく饒舌に振る舞っていた。ぼくたちはしきりに、船長に対して船や運航に関する質問を繰り返していた。

 

操舵室には東日本大震災の際に津波に向かっていく、きたかみの写真パネルが飾ってある。海上保安庁が側面から撮影したのだというそのパネルを見ると、きたかみはパクパクと水面に餌をもらいに来る錦鯉みたいな角度で船首が上向きに傾いていて、沈没寸前みたいな雰囲気を醸し出していた。波に飲まれそうでいて頼りない姿は、この船が見せるいつもの重厚なそれとは違い、まるでちゃちなおもちゃの船のようであった。

 

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ここまでこの話を書いてきて、浮かんだ考えがひとつある。

人生はよく航海に例えられるが、それはそう単純な話でもないと。

もう少し細かく例えるならば、我々の表面意識や自我というものは結局のところ操舵室には入れないのだ。恐らく、船長や機関長のような、ハンドルや計器やエンジンを掌握し多方面に指示を出している別の存在があるのではないか。自我は自身が自分の方向性を決め思い通りのルートや時間で航海をしたがるのだが、実際は呆けていて天候やレーダーなどの情報には疎く、それはすごぶる危なっかしいものなのじゃないのか。

 

人生航路では自我は船長ではなく、客に例えられると思う。「ここに行きたい」という意思表示はできるが、実のところ、航海術に関してはほとほと無力なのだ。

長い人生には、荒れた航海のようなものに遭遇する場面も多い。そんな時こそ特に、必要以上に沈没や天候の心配なぞせず、運命のかじ取りはキャプテンに身を預け、トランプをしたりカップラーメン食べたり寝たりしながら安穏と過ごすのが良いのではないか。そんないい意味での無力感が、この長い航海で得られたものの一つだと思う。

 

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