きみのうたを聴かせてくれよ

つれづれ

都会のアスファルトの海やコンクリートの森は、何かを象徴している。
それは人の心のありさまに違いなくって、街に居る人の心は、硬い何かで覆われがちだ。

それはそうしないと自分を守れないから。
ゆるむことは、他者に付け入る隙を与えることだから。
心をむき出しにしちゃいけない。
そうしてやわらかい心を、ヤドカリの貝殻のような無機物で覆って過ごす。

 

都市には他者に干渉されない自由さがあるけれど、
そこで暮らしていくうちにある種の不感症に罹る。
その自由さは、あくまでもお互い自分のナマをさらけ出すことはしないという不文律に守られている。
それにがんじがらめになることで、自分のナマと世界のナマから鈍感になっていく。

 

尾崎豊が15歳で作った歌にこんなことばがある。

追い立てられる街の中
アスファルトに耳をあて
雑踏の下埋もれてる歌を見つけ出したい

 

何年か前、浅草のロック座の近くを歩いていた。仕事帰り夕刻で、喧騒と靴音が響き渡っていた。
ふと脳裏にこの尾崎のフレーズが浮かび、倒れるように地面に飛びついたことがある。
ことば通りアスファルトに耳を当ててみた。

地面に膝をつき、横たわった。
雑踏の下に埋もれている「うた」に耳を澄ました。

アスファルトは暖かかった。
松屋とマクドナルドが見えて、その中で食事をしている人たちが見える。
近くには勢いのないドブ川が流れていて、そこから流れてくるツンとすえた匂いが鼻に突き刺さる。
それでも耳を澄まし続けた。

 

横向きに寝ている自分のそばを、足早に通り過ぎる人たち。
ねえ、きみのうたを聴かせてくれよ。

ぼくはこの街で一番きちがいじみていて、一番正気だったはずだ。
アスファルトを通じて聞こえてくるのは、狂ったように何かに追い立てられている、
カツカツという革靴やヒールのせわしない足音だけだった。

 

土とは、心のメタファーでもある。
子供の多くを見るとそうであるけれど、ほんらい心の表面は豊かな柔らかな土壌みたいなもので、
いろんな種が飛んできては根付き育っていくはずの場所であり、もともと大きな可能性を秘めたものなのだ。

そしてその地底には、地球のマントルみたいな熱を持ったエネルギーがある。
アスファルトを突き破って生えてくる雑草の息吹のようなそのエネルギー、
そのパッションはいつも心のアスファルトをも突き破ろうとしている。それが生命(いのち)だ。

 

ほんとうのぼくらはほかの誰でもない、生命そのもの。
主婦でも学生でも会社員でもなく、エネルギッシュな生命そのもの。
だから傷つくことを恐れて、心を硬いもので覆うのは、もうやめにしようよ。
せっかく生命として生まれてきたからには、その力を目いっぱい使いたいじゃないの。
そして心という土に、美しい花を咲かせたいじゃないの。

だからねえ、まずはきみのうたを聴かせてくれよ。

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